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CHURCH & JEWISH MISSION

- 教会とユダヤ人伝道 - 

導入

伝統あるユダヤ人伝道ミニストリーのリーダーとして、私たちはユダヤ人すべてが来るべき世を受け継ぐためイエスを信じる必要があると考えています(ヨハネの福音書14:6, 使徒の働き4:12)。

律法を守るという努力により神により義とされ、その報酬によりユダヤ人は自らの力で天国に入れる、というのは私たちの信仰ではありません(ガラテヤ2:15~16, 3:23~25, ローマ10:2~4)。

ローマ人への手紙の前半で律法を持つユダヤ人と持たない異邦人の違いについて使徒パウロが言及していますが(ローマ2:12~16, 3:9~20)、私たちの罪のため死に、復活された神の子を信じることによってのみ神の前に受け入れられる、というのは全ての人に適用される事実なのです(ローマ10:9~12)。

またメシアの体の中にいる異邦人には、その機会があればユダヤ人に福音を伝える義務があると信じています。ローマ11:11でパウロが、ユダヤ人に対して異邦人はねたみを起こさせる役割があると述べているからです。もちろん大宣教命令はユダヤ人・異邦人の両方に適用されるものです。しかし聖書はユダヤ人伝道を、大宣教命令のなかの「数多ある民族への伝道の1つ(に過ぎない)」とは捉えていません。

聖書はユダヤ人伝道が特別なプロジェクトであると教えており、特に異邦人への使徒であるパウロの主張からはっきりと理解できます。

 

パウロが異邦人ビリーバーに対して呼びかけているユダヤ人伝道の重要性とその義務については、新約聖書の多くの言葉から裏付けることができますが、そのなかでも特に顕著な例を2つ紹介したいと思います。

ローマ1:16に基づくユダヤ人伝道の義務

著名な旧約聖書学者だったフランツ・デリッチは、こう述べています―

「ユダヤ人を考えずに教会が世界宣教を行うのは、片翼をもがれた鳥が羽ばたこうと試みるのに等しい。」

 

そして使徒パウロはその精神を、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と、表しています(ローマ1:16)。

 

このローマ人への手紙の主題ともなるこの一節から私たちは、伝道の進むべき形を明確に見ることができます。これは決して、ユダヤ人以外の民族が軽視されている訳ではありません。しかし、神が選んだ民に対して働きかけることには特別な意味があるのです。そしてこの聖句の「はじめ」という単語からも、時間や場所、そして優先順位などにおいてユダヤ人への伝道活動がプライオリティであるべきだと分かります。

…ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力…

もちろん全てのユダヤ人に福音が及ぶまでローマ人には福音が伝わらない、または福音を伝えるべきではない、とパウロが主張している訳ではありません。またユダヤ人には福音がすでに伝わったため「はじめにユダヤ人」という言葉が無効になった、とも述べていません。現に1:16の聖句は全てが現在の時制で書かれていますので、それに従って読む必要があります。もし福音が現在においても救いへ繋がる神の力であり、それらが現在進行形で「信じるすべての人」にとってそうであるのならば、福音が「はじめにユダヤ人」にとってのもの、だとという点も現在形として読み、受け入れなければならないのです。

ここで「はじめ」と訳されているのは「プロトス」という単語です。

これは順序や時系列よりも、優先度としてのニュアンスを持つ単語です。この「プロトス」はマタイ6:33での「神の国をまず第一に求めなさい」という、主イエスの言葉でも用いられています。これが順序ではなく優先順位としての意味なので、(自身に関する)他の事を求めながらも生きていくうえでまずは神の国を求めるべきである、というのが正確な理解になります。したがってそれと同様にローマ1:16を読むと、主イエスを救世主として知る全ての者にとってユダヤ人に福音を伝える宣教が優先事項であるべき、と言うのがパウロの意図したことだと理解できます。

異邦人のための使徒としてパウロは、自身の公生涯を非ユダヤ人に対して福音を語ることに捧げました。しかしそれにより、同胞であるユダヤ人の救いに対してパウロが持つ熱意や関心が弱まることはありませんでした。異邦人のためミニストリーの旅を続けたパウロは、行った先々で地元のユダヤ人にも福音を伝えようとしました(使徒13:13~52, 14:1~5, 18:7~11, 19:8~10)。これらを読むと異邦人への宣教を行う前に、ユダヤ人に対して伝道していたようにさえ思えます。パウロのなかでユダヤ人の救いは常に大きな位置を占め、使徒の働きにあるパウロの行動はローマ1:16での彼の神学的理解として表れています。

しかし実際には、ユダヤ人伝道に関する理解や姿勢は宣教に関する大命令(宣教大命令)における『大(きな)欠落』となっているのが現状です。しかし現在、この風潮に変化が見られ、ユダヤ人伝道に真剣に取り組む教会が今までにないほど増えてきています。そしてこの流れが続くことこそ、私の切なる願いです。

 

マイルドメイ・ミッションを創設しユダヤ人伝道に尽力した異邦人宣教師のジョン・ウィルキンソンと、チャイナ・インランド・ミッション(現在のOMF)を創設した宣教師ハドソン・テーラーの間にあった、美しい関係の話を紹介したいと思います。テーラーはウィルキンソンに対して毎年1月に小切手で献金を送っていたのですが、そこには必ず「はじめにユダヤ人に(To the Jew first)」というメモが付けられていました。そしてそれを受け取ったウィルキンソンは受け取った同額をテーラーに献金として送り返し、そこには必ず「そして異邦人にも(And also to the Gentiles)」というテーラーに向けたメモが添えられていたといいます。

この逸話はたぶん真実であると思われますが、ユダヤ人宣教のコミュニティー内ではこのストーリーはまさに伝説と言えるほど有名になっています。実際にあったかどうかは別として、これは聖書に書かれているユダヤ人伝道と異邦人伝道の相互的な依存関係を美しく体現したものです。どちらか片方がもう片方を無効にする訳でも、もう片方の成就を妨げる訳でもありません。アブラハムの子孫という神の選びに基づき優先事項としてユダヤ人対して重荷を持ち福音を宣べ伝えつつ、メシアが昇天する前に命じられたように世界中に対しても福音を伝えることは可能なのです。

ローマ人への手紙9~11章

ローマ人への手紙の9・10・11の3章はほとんどのクリスチャンがよく知っている聖句でありながら、ユダヤ人伝道という(本来の)角度から理解されることはほとんどありません。たいていの場合、9章は選びや予定論という神学を教えるために用いられます。そして10章には宣教・伝道という行為や伝道師の役割についての記述があり、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」と書かれています。しかし多くの場合、ここでの伝道は世界全体へのものとして理解され、教えられています。そしてパウロの考えの中心にあるイスラエルと教会の関係が明確に描かれている11章では、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」という、最後の頌栄・賛美の部分のみが切り取られる傾向があります。

しかしローマ9・10・11章は、ユダヤ人がイエスを信じる必要性とそのための伝道、神の計画におけるユダヤ人の重要性や、ユダヤ人伝道の役割について伝える最も重要な箇所なのです。

いくつかの鍵になる考え

ローマ9~11章で使徒パウロはユダヤ人と彼らに対する伝道についての、

いくつかの鍵となる考えを指摘しています。

 

例えば、9:1~3からはユダヤ人に対してのパウロの重荷を感じることができます。

「のろわれた者となることさえ願いたい」という一節からは、ユダヤ人が天国に行くのであれば自身は喜んで地獄へ行くというパウロの熱い気持ちが見られます。異邦人のための使徒であったパウロは、同時にとてつもない重荷を同胞に対して感じていたのです。


そして10:1には、ユダヤ人のために祈るというパウロの熱意がさらに描写されています―兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

ローマ人への手紙のこの9~11章にはユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れない、という神の計画をどう捉えるべきかというパウロの葛藤が見られます。


そして11章でパウロは、神はユダヤ人を捨ててはおらず、この世と来るべき世で彼らが救いを得る希望はあるのだ、という結論を導き出しています。

 

彼の葛藤と結論をまとめると、こうなるでしょう:
イスラエルはすべてキリストを拒んだのでしょうか? 神はユダヤ人を捨てられたのでしょうか?

断じて違います― イスラエルがすべてキリストを拒絶した訳ではなく、パウロ自身は自身をユダヤ人だとローマ11:1で断言しています! そして彼らの不信仰から、神はユダヤ民族を拒絶されたのでしょうか?

これもまた違います! パウロ自身が神の(約束に対する)忠実さの生き証人なのです。

そして私自身もイエスを信じるユダヤ人ビリーバーであり、私たちのミニストリーなどを通じて救いを受け入れるユダヤ人の残された者たちが、今でも立てられ続けているのです。


神が守り保たれている残された者たちですが、これは旧約聖書時代から見られ、列王記第一の18章からパウロが引用しているとおりです。エリヤはカルメル山に登り、バアルの信奉者・預言者と対峙しました。エリヤが完全に一人で孤軍奮闘していると感じた時、神はバアルにひざをかがめなかった七千人という仲間がいることを示されました。


この残された者に関する教えは聖書において非常に重要な理解であり、創世記から黙示録までの間に数多く見られます。ヘブライ語で『シャアル』というのですが、これは聖書的に非常に重要なアイデアです。
例えば、ノアは残された者でした。また神はソドムという町を、残された(正しい)者たちのため滅ぼさずに残すことを望まれました。「残された者たちのためでなければ、わたしは滅ぼしていただろう…」というフレーズは聖書内に幾度となく登場し、今日存在するユダヤ人ビリーバーもこの聖書的な流れを汲む、残された者の一部なのです。


この教えは、私達が孤独ではないことを伝えています。使徒パウロのメッセージは、主へ心を開き従うユダヤ人という『残された者たち』がどの時代においても立てられる、ということを意味しています!

そしてこの現在の時代においても、イエスをユダヤ人のメシアとして受け入れるユダヤ人ビリーバーたちにより成就を続けているのです。


チョーズン・ピープル・ミニストリーズで奉仕することに私たちが喜びと胸の高鳴りを感じる一つの理由に、私たちの住む国だけでなくこの地球の四隅に至るまで福音という良き知らせを耳にし、それを肯定的に受け入れるであろうユダヤ人が数多くいる、というのがあります。


ここで述べたように私たちは残された者たちが救われるという主の約束を胸に刻み、「はじめにユダヤ人に」福音が伝わるよう重荷を持ち、その計画に参画する必要があります。私たちが願うのは、主の命じたことに従い私たちがユダヤ人に福音を実際に宣べ伝え、またユダヤ人伝道が心のなかにプライオリティとしてあることです。聖書から分かるように、神はまだ自身の民を見捨ててはおられないからです!(ローマ11:25~27)

結び

これらの聖句とそれに対する理解から、私たちが受け入れるべき実践的なメッセージは明確です。

メシアの体に居る異邦人は、ユダヤ人にイエスを伝える使命が与えられています。

そしてそんな偉大な働きを全うしようとする兄弟姉妹を助け奉仕することこそ、

チョーズン・ピープル・ミニストリーズの重要な働きです。
実際「私たちの使命」には、ユダヤ人への伝道や弟子訓練を行うビリーバーに対して助けや奉仕することが明記されています。


この21世紀に主の働きの成就のため、全てのビリーバーを励まし、必要なツールを提供するなどして、

聖書に基づき戦略的な架け橋を結ぶことが私たちの願いです。

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