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教会はユダヤ的なテーマについて教えるべきか?

グローバル化が進んでいる今日でも、アジアの教会でユダヤ人を目にすることはほとんどありません。したがって「ユダヤ的なテーマについて教会で取り扱い、教えるべきか」という質問自体が、奇妙に感じられるかも知れません。

 

そして牧師など教える立場の方々の多くが、この質問には『No』と答えられるのではないでしょうか。確かにイスラエルに関する教えは神学的に混乱を招いたり、政治的な議論を呼ぶと考えられがちです。

問題をさらに複雑化させているのは、イスラエルについて学びたいという希望や、シャバット(安息日)・食物規定(コシャー)や聖書的な祭りなどについての質問や要望が教会内からあがり、教職者側を悩ませているケースです。そしてそれらに関する適切な理解やソースが十分ではない場合、これらに関しては否定的な結論に至るケースが大半です。

しかし、これらについて適切かつ建設的な議論がなされなければ、兄弟姉妹の間に分裂や不健康な関係が生じてしまい、相互の愛によって周囲への良き例と私たちがなることが困難になってしまいます。

私は日本の教会で、ユダヤ的なテーマに関して明確な形で教えられるべきだと考えています。ここではその理由を4つに分けてお話したいと思います。

01

聖書の筆者や聖書時代の読み手の歴史的また文化的な背景を理解することは、聖書に対するより正確な理解の大きな助け、有用なツールとなります。

02

多くの牧師や教師の方々が、ユダヤ的な聖句やテーマに関して教えることに関して明確な立場を決めかねている理由の一つに、それらについての十分な教育を受けていないというのがあります。しかし聖書が伝えようとしている正確な内容を理解するためには、歴史的また文法的な文脈から神の意図やメッセージを出来るだけ完全な形で理解し、それを教えることが必要です。また旧約聖書への理解を深めることは、新約聖書についてより深く知ることへと直結しています。福音のメッセージが決して弱まることはなく、かえって強固なものとなるのです。旧約聖書からは救いが信仰をとおした恵みであり、新約聖書からは異邦人もユダヤ人と同様アブラハムの信仰に入り、共に歩めるということがはっきり理解できるのです。

03

教会員がユダヤ的なことに興味を持った際、恐らく牧師の方々は一見すると普通の教会員だった彼らがどうして「ユダヤにかぶれた」のだろう、と疑問に思われることでしょう。彼らの興味は、バランスのとれた良い教えに母教会の枠組みで触れたからでしょうか? または対照的に、それらに関する教えに母教会以外の場で触れたのでしょうか? 恐らく後者が大多数ではと推測します。

ビリーバーがユダヤ的なことに熱心になり、その結果自身の教会に対してフラストレーションを感じるといった例を見聞きしますが、その大きな要因はイスラエルの物語が旧約・新約聖書の土台であることを教会員が理解した際、その興味を満足させる情報や教育を供給するシステムが教会側に不足していることにあります。したがって彼らの一部は教会以外の場所、特にインターネット上でイスラエルやユダヤに関する情報を探すようになり、多種多様な情報の海に行き場を求めるのです。

そしてその中には正確で素晴らしい情報もあれば、偏り・間違った情報も混在しています。しかしイスラエルに対して教会員が持つ興味や探求心に対して教会が否定的な態度を取ることは、母教会に対して「イスラエルを知ることは聖書的なのに、なぜ教会・先生は反対されるのか」と不信感が生まれる可能性をはらんでおり、良い結果を生みません。

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忘れられがちですが聖書の3分の1は預言書で、その預言のほとんどがイスラエルを主題または文脈としたものです。またそれらの多くが過去のものではなく、現在・未来について語っています。未来に起こるべき預言についての理解を深めるためには、もちろん過去について知ることが必須になります。また同時に未来について理解できなければ、現在起こっている試みや苦境を乗り切ることは困難になってしまいます。

これら4つの理由から、チョーズン・ピープル・ミニストリーズ日本支部は日本で活動するキリストの体に仕え、教会や教職者たちをサポートすることを重荷と感じています。上手く取り扱うことができれば、(有害なものと考えられがちな)イスラエルに関するテーマは私たちの信仰を深め、信仰と恵みによる救いという重要なメッセージをより明確なものとし、聖書に対する私たちの自信と誇りを強固にし、いずれ起こるであろう祝福すべき主の帰還のために私たちを備えさせることとなるでしょう。

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