ユダヤ人伝道の重要性
なぜユダヤ人伝道が重要なのか― この疑問への理由はいくつも考えられます。
まず、それは聖書に明記されているからです。使徒パウロは、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と述べています。さて、この聖句は誤解を生む傾向があります。時として「ではユダヤ人全員が信じ、その後に異邦人の間で福音が述べ伝えられるべきなのか?」との疑問が生まれます。しかしこの考えはパウロが意図していたものとは違います。彼の意図はギリシャ語の『プロトン』という単語から見えてくると、私は考えます。プロトンは、時系列ではなく重要度から見た『第一に』という意味なのです。
マタイの福音書6:33を見ると、イエスが用いたラビ的な言葉の選び方が見られます。「神の国をまず第一に求めなさい」という言葉は、生きていく中で他の事柄が重要性を持たないという意味ではありません。自身が持つ希望や願望を追い求めつつも、そのなかで第一に神を据えるということです。私たちは御国を求めることをプライオリティとして考え、生きるべきなのです。そしてパウロの意図についても、同様の事が言えるのではないでしょうか。ユダヤ人への福音というプライオリティを私たちはパウロと同様、諦めてはいけないのです。
したがって、教会がユダヤ人伝道を優先事項とするのは聖書的な姿です。イエスのビリーバー全員にとって神の国が優先すべきものであるのと同様に、ユダヤ人へ福音を伝えることもそうあるべきなのです。
この素晴らしい聖書的な事実には、また別角度からの側面があります。
ローマ1:16に霊感を与えた文脈について考えると、使徒パウロがイエスの再臨について語っている11章に答えが見られます。そこには死者の復活が記述されており、「イスラエルはみな救われる」とあります。イエスの再臨と残されたイスラエルの救いには、切り離すことのできない関係があるのです。
したがって「イエスがいつ戻られるのか?」という質問に関して、『いつ』起こるのかは分かりませんが、『どのように起こるのか』という疑問については、私たちには答えがあります。終わりの日にユダヤ人たちが自分たちが突き刺した者を仰ぎ見た時(ゼカリヤ12:10)、それが起こるのです。彼らがメシアであるイエスを信じた時、イエスが戻ってこられるのです。
マタイの福音書23:37~39のイエスの言葉を、覚えておられるでしょうか。そこでイエスはエルサレムに対し、涙しています。ここの「ああ、エルサレム、エルサレム… わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」という言葉から、主がユダヤ人をどれほど愛していたかを垣間見ることができます。自身の約束を成就させ、ユダヤ人を守り、集め受け入れるのが主の望みでした。しかしメシアであるイエスを預言した預言者たちをユダヤ人が拒絶し続けたため、彼らを集めることは叶いませんでした。そしてイエスはエルサレム神殿の崩壊を預言し、「バルフ・ハバ・ベシェム・アドナイ(主の御名によって来られる方に祝福あれ)」との声がユダヤ人から上がるまでわたしを見ることはない、と宣言しています。
これは逆説的に、希望の約束とも言えるのではないでしょうか。「~までわたしを見ない」ということは、ユダヤ人がイエスをメシアだと受け入れ、宣言する日は確かにやってくるということを意味しているからです。さて、ユダヤの伝統的な結婚式ではラビが「バルフ・ハバ・ベシェム・アドナイ」という言葉とともに新郎を招き入れるのですが、この2つは非常に似ています。時は来たり、ユダヤ人は真の花婿を受け入れるのです。そしてそれこそ、メシアであるイエスなのです。
さて、ここでは聖書ではイエスの再臨とイスラエルの救いが深くリンクしていることを指摘しました。使徒パウロがローマ1:16を書いた時、彼はこの構図を理解していたのです。そして私たちも、同様の理解を持つことを求められています。
神の国と同様、ユダヤ人伝道が皆様の人生の中で重要なプライオリティとなれば― それが私の願いです。
ベイトサムライのビジョン
ベイトサムライは、東京を訪れるイスラエル人を迎え入れ、約束されたイスラエルの救世主イェシュアの良い知らせを、彼らと共有することに専念するゲストハウスです。
ベイトサムライのビジョンは、
自国の家族から離れたイスラエル人達に家庭を提供し、
彼らが迎え入れられることを通して、
イェシュアの愛を受け取ることです。
旅行者の中には何ヶ月も旅行している人もいれば、
旅を始めたばかりの人もいます。
特に金曜日の夜、
彼らは私たちと安息日前夜の夕食をとり、
キドゥシュの要素(ロウソク、ハラーブレッド、ワイン)
を通して、
イスラエルの救い主に対するメシアニック信仰を
明確に説明し、天の父との親密な関係を持つためには、
イェシュアを通過しなければならないと、
私達は信じています。
イスラエルのゲストは、信仰の種を受け取るだけでなく、救い主としてイェシュアを信じることは、
ユダヤ人の信仰、アイデンティティ、表現、
人生の 100%本物の表現になり得ることができる
というより深い理解を持つようになります。
メシアニッ ク信仰者とのこの出会いは、
彼らがイスラエルに戻った後、
信仰者とのさらなる交流のために、
それらは役立つことになるのです。