top of page
History of the Jews in Japan_ Past, Present, and Future.png

日本におけるユダヤ人の歴史
- 過去・現在・未来 -

聖書は聖霊の導きによって書かれましたが、聖霊はそのためにユダヤ人を用いられました。イエスがユダヤ人として生まれたように、弟子たちも皆ユダヤ人でした。この使徒たちは多くの苦難を体験しながら、世界中に福音のメッセージを広めました。私たちのクリスチャンとしての遺産は、ユダヤ人を通して聖地から受け継がれてきたのです。

日本に福音を伝えたユダヤ人たち

近代史を振り返ってみると、日本における最初のプロテスタント宣教師がユダヤ人であったことは特筆に値します。1811年に、ハンガリーのプレスブルクの著名なユダヤ人家庭に生まれたベルナール・ジャン・ベッテルハイムは、当初ラビになることを目指していました。イタリアのパドヴァで医学の学位を取得しましたが、彼には多くのクリスチャンの友人がいました。そして1840年、彼はクリスチャンの同僚との会話に心を動かされ、持ち前の分析力に導かれて、旧約聖書のメシア預言を研究することを決意しました。この研究を通して彼の目は開かれ、イエスがこれらの預言を細部に至るまで成就したことを理解するようになりました。

 

彼はイエスをメシアとして受け入れ、熱心に同胞(ユダヤ人)に福音を伝え始めました。ラビたちとの神学論争の記録の幾つかは今日まで残っています。後に彼は沖縄で医療宣教師となり、1846年から1854年までそこで奉仕しました。沖縄では、ベッテルハイムは地元当局の抵抗に直面しました。彼は多くの困難を乗り越え、福音を伝えながら、地域住民に医療を提供することに成功しました。現在、那覇市には彼の功績を称える記念碑が建っています。

 

私は、沖縄に来るたびに、この場所を訪れるのが楽しみです。それは、私にとってのインスピレーションの源となっています。

 

ベッテルハイムは、聖書を沖縄語(仮名文字)に翻訳し、また聖書の一部を中国語と日本語に翻訳しました。また、聖書用語の日本語辞典も編纂しました。

 

ベッテルハイムの福音伝道への深い献身、日本の人々への愛、現地語の習得への献身、そして当局のしばしば非友好的な態度にもかかわらず、地元コミュニティに奉仕する決意は、彼を現代の多くの宣教師にとって力強い模範としています。

History of the Jews in Japan_02.jpeg
History of the Jews in Japan_03.jpeg
History of the Jews in Japan_04.jpeg

日本におけるユダヤ人コミュニティの到来と成長
-歴史的概観-

1854年3月に、日本とアメリカ合衆国の代表者たちは重要な条約に署名しました。アメリカ海軍のマシュー・C・ペリー提督の尽力により、日本との貿易が開始されました。箱館、長崎、横浜、神戸の港が外国人との貿易のために開港されました。当時、ユダヤ人はすでにアジア諸国との貿易に積極的に関わっていました。そのため、日本が開港すると、彼らはすぐに日本列島との貿易関係を築き始めました。

 

日本への最初のユダヤ人移民は、スペイン、ポーランド、アメリカ、イギリスからやって来ました。彼らのほとんどは、当時日本で最も活発な国際貿易の中心地であったと言われている横浜に定住しました。彼らはそこで、シナゴーグ、学校、墓地、埋葬協会を設立しました。今日でも数百人のイスラエル系ユダヤ人が横浜に住んでおり、横浜外国人墓地にもユダヤ人区画があります。日本が港を国際商人に解放し、指定された外国人居留地への居住を許可してからわずか6年後の1860年代までには、約50世帯のユダヤ人家族が日本に住んでいました。

 

1880年から1882年にかけてロシアでユダヤ人コミュニティに対するポグロム(虐殺)が行われますが、その時、一部のユダヤ人は日本への脱出に成功し、長崎市に定住しました。当時、長崎からウラジオストクまでは海路でわずか2日で到着できたため、実際にはかなり近かったと言えます。長崎のユダヤ人コミュニティは横浜のコミュニティよりもさらに大きく成長し、約100世帯が居住していました。長崎のユダヤ人コミュニティの著名な指導者の一人は、ジークムント・ダーヴィト・レスナー(1858-1920)です。彼はユダヤ人商人で、1894年に長崎にベス・イスラエル・シナゴーグを建設しただけでなく、都市自体の発展にも多大な資金と資源を投入しました。

 

ここで明らかなパターンが見られます。ユダヤ人の存在は、多くの場合、彼らが住む環境に良い影響をもたらします。ジークムント・ダーヴィト・レスナーは1920年に62歳で死去し、長崎の坂本国際墓地のユダヤ人区画に埋葬されました。

 

1904年2月、日露戦争が勃発すると、ユダヤ系アメリカ人の銀行家、実業家、慈善家であったヤコブ・ハインリヒ・シフは、ロシアにおけるユダヤ人コミュニティに対するポグロム(ユダヤ人虐殺)で何千人ものユダヤ人が残酷に殺害されたことに衝撃を受け、ロシアと戦う日本を支援するために、複数の裕福なユダヤ人家族からの資金援助が日本を支援する道を開きました。

 

その一方で、日露戦争では、日本と戦うためロシア軍に多くのユダヤ人が強制的に徴兵されました。これらのユダヤ人兵士の多くは日本と戦う意欲はなく、機会があればすぐに降伏した者も少なくありませんでした。

 

日本軍の捕虜となったロシア兵の一人にヨセフ・トランペルドールという人がいました。彼はロシア系ユダヤ人で、日本と戦うためにロシア軍に徴兵されました。1905年1月2日、旅順の戦い(Battle of Port Arthur)でロシアが敗北した時、トランペルドールは片腕を失い、捕らえられ、戦争捕虜として日本の大阪にある浜寺俘虜収容所に連行されました。ロシア系ユダヤ人捕虜たちは日本人に対して憎しみを抱いておらず、トランペルドール自身の回想によれば、彼らは日本で良い待遇を受けました。残念ながら、ユダヤ人捕虜のうち2人は病気で亡くなりましたが、ヘブライ語の碑文がある彼らの墓が泉大津市に立てられ、今も地元の人々によって管理されています。

 

1911年(第一次世界大戦中)、トランペルドールはユダヤ人としての心の願いに従い、イスラエルの地へ移住し、そこでユダヤ人防衛軍の設立に尽力しました。1920年、聖地において、テル・ハイの入植地を防衛中に戦死し、後にユダヤ人の国民的英雄となりました。一般的な記録によると、彼の最期の言葉は、「それはなんということもない。我らの祖先の地である我らの地のために死ぬことは良いことだ」でした。

History of the Jews in Japan_10.jpeg
History of the Jews in Japan_08.jpeg
History of the Jews in Japan_11.jpeg

第二次世界大戦前の神戸のユダヤ人コミュニティ

前述の通り、1860年頃、横浜にはユダヤ人コミュニティが既に存在し、その多くは貿易商とその家族で構成されていました。1880年代には、ロシアでのユダヤ人虐殺(ポグロム)を逃れたユダヤ人が長崎に定住し始めました。ロシア語に堪能で、長崎の生活にすぐに適応した彼らは、ロシアと日本間の貿易を促進する上で重要な役割を果たしました。19世紀末までに、長崎のユダヤ人コミュニティは日本最大のユダヤ人コミュニティとなりました。

 

一方で、神戸は19世紀後半に外国貿易に開かれた最初の港の一つでした。港は1868年に開港し、今日では神戸は世界最大級のコンテナ港に成長しました。19世紀には、神戸港に重要な貿易機会があったこと、また、日本政府がユダヤ人を偏見なく扱ったという事実も、日本のこの地域に定住するユダヤ人を増加させました。

 

1868年の開港後、神戸港は急速に重要な国際貿易の中心地へと発展しました。鉄道網の発達により、この傾向はさらに強まりました。ますます多くのユダヤ人商人がこの地域に定住するようになりました。これは、日本におけるユダヤ人の存在の自然な流れでの拡大でした。そして、1903年末までには、日露間の緊張が高まり始め、開戦が近づくにつれ、ロシアと長崎間の貿易は急激に減少しました。その結果、長崎のユダヤ人コミュニティのほとんどのメンバーは神戸へ移住しました。

 

そして1923年に、関東大震災が東京と横浜を襲った後、さらに多くのユダヤ人が神戸に移住しました。結果として、神戸は現在、日本で最も古いユダヤ人コミュニティが存続している地であると自信を持って言えます。実際、神戸は100年以上も継続して活動している国内唯一のユダヤ人コミュニティです。

 

神戸のユダヤ人コミュニティは成長し、第二次世界大戦前には、ユダヤ人の存在感は、この街で比較的大きくなっていました。貿易を通して、イラクのバグダッドやシリアのアレッポからセファルディ系ユダヤ人が、ポーランドやロシアからアシュケナージ系ユダヤ人がやって来ました。さらに、ポグロム(ユダヤ人虐殺)から逃れてきたロシア系ユダヤ人は、当初は長崎に定住しましたが、後に神戸に移住しました。いずれにせよ、当時の神戸のユダヤ人人口の大部分はセファルディ系ユダヤ人だったようです。それは、1912年に神戸に開設された最初のシナゴーグが、セファルディ系ユダヤ人の礼拝形式を行っていたことからもわかります。

History of the Jews in Japan_13.jpeg
History of the Jews in Japan_14.jpeg
History of the Jews in Japan_16.jpeg

第二次世界大戦中の日本のユダヤ人コミュニティ

その後、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年に日本はナチスドイツと共に枢軸国に加わりました。しかし、第二次世界大戦がアジア地域にまで及ぶのは1941年末になってからでした。

 

この2年間、多くのユダヤ人が神戸に住み続けました。日本は、ナチスドイツと同盟を結んでいたにもかかわらず、ユダヤ人を絶滅させたいという彼らの度重なる要請を断り続けました。ユダヤ人は日本当局から比較的良い待遇を受けていました。日本にいたユダヤ人は少しも脅威に直面しませんでした。ユダヤ人コミュニティに対し、神戸警察署長自ら、日本では恐れるものは何もないことを保証したという記録も残っています。

 

ユダヤ人が、日本人から比較的良い対偶を受けられた理由の一つは、前に述べたヤコブ・ハインリヒ・シフというユダヤ人金融家の記憶がまだ新しかったからです。シフは、1904年の日露戦争の際、日本のために多額の資金を集めたユダヤ人実業家でした。彼は日本を大いに助け、ユダヤ人には商才があり、強い国際的コネクションを持っていることを日本人に示したのです。

 

この時期、東ヨーロッパの多くのユダヤ人が極東に逃れましたが、そのような難民を援助した日本人も数多くいました。

 

例えば、大日本帝国の犬塚惟重海軍大佐と大日本帝国の安江範弘陸軍大佐は、ユダヤ人難民が日本国内や満州、上海などの日本占領地域に定住し、保護されるのを助けたと言われています。また、日本の外務大臣であった松岡洋右もユダヤ人難民を援助しました。もちろん、これらの人々の経歴や、ユダヤ人を援助した動機は複雑で、議論の余地がないわけではありません。しかし、神が日本人を用いてユダヤ人の命を救ったことは明らかです。(ダニエル・アリ、スティーブン・レヴァイン著『日本のユダヤ人』2010年)

 

ホロコースト中にユダヤ人の命を救うために助力した最も有名な日本人は、1940年にリトアニアのカウナスにある日本領事館の領事代理を務めていた杉原千畝(ちうね/センポ)でしょう。その夏、杉原はビザ発給を控えるよう命じる外務省の電報を無視し、ポーランドとリトアニア両国からの何千人ものユダヤ人難民に通過ビザを発行しました。これらのユダヤ人難民のほとんどは、日本への長旅を終えて敦賀港に到着し、その後神戸に行き、そこで1週間から6か月間滞在してから旅を続けました。ここで、多くのユダヤ人難民が持っていた通過ビザの有効期間がわずか10日間であったことは注意すべきことです。しかし、日本人クリスチャンの小辻節三(アブラハム)が解決策を見つけました。彼は個人的なつながりと、日本の官僚制度に関する深い理解を活用し、難民の滞在延長手続きを手助けし、そうすることで日本国内での彼らの入国資格を合法化しました。

 

小辻節三のことを例としてご紹介しましたが、その他にも、この困難な時期にユダヤ人難民を支援するために立ち上がった日本人や外国人が、たくさんいたこと忘れてはなりません。

 

1941年の夏、受け入れ国が見つからなかったユダヤ人難民たちは、上海の日本統治下にあった虹口(ホンキュウ)に送られました。当時、この地域は一般的にホンキュウと呼ばれていましたが、現在はホンコウと呼ばれています。

 

当時、ヨーロッパから来た約二万人のユダヤ人難民がそこにすでに住んでいました。注目すべきことは、虹口の難民のほとんどが第二次世界大戦を生き延び、1945年の終戦までそこに留まっていたということです。

 

1984年10月4日、杉原千畝はイスラエル国から「諸国民の中の正義の人」の一人として表彰されました。エルサレムのホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムで彼を称える特別な式典が開催され、記念館の公園には彼の名を冠した木が植えられました。

 

1939年から1941年にかけて、数千人のユダヤ人難民が神戸を通過しました。中でも最も有名なのは、ポーランドにあったミール・イェシーバ(ユダヤ教神学校)の教師と生徒300人でしょう。日本の援助により、ミール・イェシーバはホロコーストを完全に生き延びた数少ないイェシーバの一つとなりました。ミール・イェシーバは現在、エルサレムとニューヨークにあります。

History of the Jews in Japan_17.jpeg
History of the Jews in Japan_18.jpeg
History of the Jews in Japan_20.jpeg

第二次世界大戦中のユダヤ人難民に対する
日本のクリスチャンの支援

敦賀に到着した難民の中には横浜へ向かった者もいましたが、大半は神戸へ向かったことは注目すべき点です。神戸のアシュケナージ系ユダヤ人協会(JEWCOM)は、アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(The Joint Distribution Committee)の支援を受け、難民への支援活動を行いました。

 

しかし、当時すでに日本とアメリカの間の緊張が高まっていたため、難民たちは、特にアメリカのユダヤ人団体からの支援を受け続けることに関して、多くの困難に直面しました。

 

その結果、神戸のユダヤ人は、きよめ教会の日本人クリスチャンたちに助けを求めました。この教会は、中田重治(1870-1939)によって設立されましたが、彼はユダヤ人が選民であると信じ、彼らのシオンへの帰還を祈る「キリスト教シオニスト」の先駆者の一つでした。

 

中田重治の信念を説明するために、1933年に出版された彼の著書『聖書より見た日本』から引用したいと思います。この本は、前年の集会でのイスラエル復興に関する彼のメッセージに基づいています。その集会で彼は、イスラエルに対する神の約束について説教し、イスラエルの復興とユダヤ人の救いのために祈るよう日本の信者に促しました。彼はこの本の中で、「我らは決してユダヤ人の悪口を書いた本を見たりなどして(中田の時代には『シオン議定書』が人気を集めていました)彼らを侮ったり排斥したりすべきではない。96」と書いています。

 

彼は、イスラエルに帰還する現在の移民の波は、「アブラハムに約束し給うた事を成就し給うがためで、預言の確実性を保証する事実である。90」と説明しました。

 

当時の写真が残されていますが、そこには教会員がユダヤ人難民にリンゴを配っている様子が見られます。教会の指導者である斉藤源八牧師と瀬戸四郎牧師は、日本全国から寄付を集め、ユダヤ人難民に多大な人道支援を行いました。ユダヤ人難民たちは、こうした支援に深く心を動かされました。支援に心を動かされたあるユダヤ人難民は、感謝の印として瀬戸四郎に小さなトーラーの巻物を贈りました。戦後も瀬戸四郎は難民の何人かと連絡を取り合い、文通を続け、信徒たちは彼らのために祈り続けました。

 

ユダヤ人を助けたのはきよめ教会だけでなく、他のクリスチャンたちもいました。例えば、神戸の地元のクリスチャンの仕立て屋は、難民のコートを無料で修繕しました。

 

*共同配給委員会(The Joint Distribution Committee)のウェブサイトには、日本に到着し、そこから旅を続けた難民に関する情報と文書が掲載されています。

 

1946年以降、日本の復興とイスラエルの地におけるユダヤ人国家の再建の時代が始まりました。

 

2000年にわたる捕囚、何世代にもわたる迫害、そしてホロコーストの恐怖を経て、聖書の古代の預言が現実のものとなり始めました。神は、はるか昔に約束された通り、世界中からユダヤ人を集め、イスラエルの地に帰還させ始めました。

 

「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」

エゼキエル書 36章24節 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

そして1948年5月14日、あらゆる困難を乗り越え、近代イスラエル国家が樹立されました。それは歴史上類を見ない瞬間でした。

 

預言者イザヤは、この驚くべき出来事が起こる何世紀も前に、それについて次のように語っています。

 

「だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

イザヤ書 66章8節 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

人間にとっては不可能と思われたことが、神の御手によって成就されました。イスラエルの復活は、単なる現代の政治的出来事ではありません。神がご自身の御言葉と、イスラエルの人々への約束を忠実に守られることの生きた証なのです。

 

日本とイスラエルは1952年以来、外交関係を維持しています。実際、日本はアジアの中でイスラエルと正式な外交関係を樹立した最初の国です。当初は公使館レベルの関係でしたが、1963年には正式な大使館へと格上げされました。イスラエルは東京に大使館を開設し、日本はテルアビブに大使館を設置しました。

 

2014年、安倍晋三元首相はイスラエルを公式訪問しました。この訪問は、経済協力と安全保障についての対話に重点を置いた二国間関係の新たな章を刻みました。

 

公開されている情報によると、日本とイスラエルは現在、以下のような主要分野で緊密に協力し合っています。

 

・イノベーションとハイテク開発

・ヘルスケアと医療研究

・観光と文化交流

 

2023年、両国は外交関係樹立71周年を迎え、それぞれの国で共同の文化・ビジネスイベントが開催されました。

 

また、2023年には、エル・アル航空がテルアビブと東京間の直行便を就航させ、日本を訪れるイスラエル人旅行者数が大幅に増加しました。

 

イスラエルの観光について語るとき、イスラエルは非常に小さな国であり、周辺諸国のほとんどはイスラエル国民にとって安全ではないことを忘れてはなりません。彼らは、世界の他の地域のように、車や新幹線に乗って近隣諸国を気軽に訪れることはできません。だからこそ、多くのイスラエル人が世界中を飛び回り、旅しているのです。

 

そして今、日本におけるユダヤ人の歴史というこのユニークな背景、そして両国間の関係と観光の発展という背景の中で、私たちが日本で行っているユダヤ人宣教活動について皆さんにお話ししたいと思います。

History of the Jews in Japan_23.jpeg
History of the Jews in Japan_24.jpeg
History of the Jews in Japan_25.jpeg

日本・イスラエル宣教活動

神はビクトリアと私に、日本への特別な愛を与えてくださいました。2011年3月11日、東北地方を壊滅的な地震と津波が襲った日から、私は日本のために祈り続けてきました。あの日は私の心に深い印象を残しました。神が私にビジョンを与えてくださったのは、まさにその時でした。それは、日本の人々のために、そしてこの国のために祈ることです。

 

2017年、私は初めて日本を訪れました。その旅で、多くのイスラエルの若者が日本中を旅している様子を目の当たりにしました。この出会いを通して、神は私のビジョンを広げてくださいました。それは、日本のために祈るだけでなく、日本の地にユダヤ人の宣教活動を設立するというビジョンでした。そして2022年、チョーズン・ピープル・ミニストリーズ(CPM)の日本支部を正式に設立することができました。

 

当初はイスラエルでの奉仕を続けながら、同僚の内山アイザックとメリッサが率いる働きを支援するために頻繁に日本を訪れていました。しかし、日本における宣教は急速に成長し始めました。必要性が明確になり、より深く宣教するよう召されました。チョーズン・ピープル・ミニストリーズ日本支部の設立者であるビクトリアと私は、主がこの宣教に全力を注ぐように導いていると感じました。2024年、私たちはイスラエルでの宣教活動を継続しながら、日本に宣教の拠点を設立することを決意しました。

 

2022年以来、主は私たちの努力を豊かに祝福してくださいました。東京と日本各地で、数千人のイスラエル人旅行者が私たちとの個人的な対話を通して福音を直接聞いてくださっています。

 

私たちは日本の地に来たユダヤ人の客人です。このミニストリーが永続的な成果を上げるためには、地元の日本人教会の支援が必要です。ビクトリアと私は、長期的な効果を上げるためには、地元の日本人信者のチーム、つまり私たちのために祈り、支え、心と目的を一つにして共に仕えてくれる忠実な兄弟姉妹のチームを築かなければならないことを理解しています。ユダヤ人の救いのために、そして日本の祝福と救いのために。

 

今、私は主が日本にいるユダヤ人の間で既になさっていることを目の当たりにできることに感謝しています。この地で、イスラエルの若い男女たちがが福音に心を開き、彼らを通してこのメッセージがイスラエルに再び流れ始めています。

 

それは平和と愛のメッセージであり、癒しの力を持つメッセージであり、ここ日本でも聖地でもとても必要とされているメッセージです。

 

私たちの次の戦略的焦点は、日本で最も豊かで長いユダヤ人の歴史を持つ都市、神戸であるべきだと心から信じています。

 

神戸で力強く永続的なユダヤ人宣教を築くことができるよう、私たちと共にお祈りください。

 

そして何よりも、私たちが決して忘れてならないのは、私たちが行うことはすべて福音のため、すなわちユダヤ人の救いのため、そして日本の祝福と救いのためであるということです。

 

デイビッド・トゥルーベック

チョーズン・ピープル・ミニストリーズ日本支部 代表

History of the Jews in Japan_30.jpeg
History of the Jews in Japan_34.jpeg
History of the Jews in Japan_36.jpeg
bottom of page