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現代のイスラエル国家は、聖書の預言の成就と言えるのでしょうか?

  • solidrockjp
  • 1 日前
  • 読了時間: 14分


この問いに答える前に、先ずある点に注目することが重要です。イスラエルの民が故郷から遠く離れ、迫害を受けながらも奇跡的に生き延びた、長きにわたるユダヤ人の追放という現象は、人類史上、他に類を見ないものです。実際、ユダヤ人はあらゆる困難を乗り越えて生き残った唯一の民族です。旧約聖書に記されている他の民族は、とうの昔に歴史から姿を消しました。エドム人、モアブ人、アモン人などの帝国は、もはや存在しません。


次に重要な点は、イスラエル民族の樹立は、最初から奇跡に満ちていたということです。


神はアブラハムを選び、彼とその子孫との間に永遠の契約を結びました。アブラハムはイスラエル民族の最初の族長です。神はアブラハムに、彼が住んでいたハランの地を離れ、カナンの地へ行くように命じました。神は、アブラハムの子孫にその土地を与えると約束されたのです。


しかし、アブラハムには子供がいませんでした。神は99歳のアブラハムと90歳のサラに、息子を授けると約束されました。そして、その息子を通して、アブラハムは偉大な民族の父となると。神は約束を果たし、奇跡を起こし、サラはイサクを産みました。

ここでもまた、ユダヤ民族の創造そのものが奇跡に根ざしていることが分かります。こうして、ユダヤ民族の物語はアブラハムから始まり、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの十二部族へと続いていくのです。


では、モーセの時代に話を進めましょう。ここで、神とイスラエルの民との関係を理解する上で重要な点がもう一つ見えてきます。因みに、イスラエルの民は単なる歴史上の事例ではなく、私たちが神の性質を学び、理解し、今日の生活を生きるための洞察を得る模範なのです。


この民が約束の地に入る直前にされた最後の説教において、モーセは預言し、彼らに警告しました。もし彼らが神から離れるならば、裁きが下り、諸国に散らされるだろうと。しかし、それでもなお、神は忠実であり続け、そして、終わりの日に彼らを連れ戻すだろうと。


これは重要な点です。神は忠実であり、その慈しみは永遠に続きます。しかし、神は罪に対しては妥協しません。罪には結果が伴います。しかし、その罰は一時的なものであり、契約は永遠です。


「主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。...あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」(申命記 427節、3031節 新改訳©2003)


そして、まさにそれがイスラエルの民に文字通り起こったのです。イスラエルの民はイスラエルの地に住んでいましたが、時が経つにつれ、彼らの道徳と霊的さは衰え始めたので、神は彼らを罰しました。


紀元前586年、バビロン人は第一神殿を破壊し、ユダの民を追放しました。その追放は約70年間に及びました。しかし、その後、神が約束されたとおり、彼らは故郷に連れ戻されたのです。


それは、なぜでしょうか?


それは、神の契約、すなわちアブラハムへの約束、ダビデの家系への約束があったからです。メシアはユダ族、ダビデ王の血筋から、ベツレヘムの町で生まれることになっていました。バビロンでもペルシャでもありませんでした。


たとえ私たちが不誠実であっても、神は忠実であられます。


しかし、西暦70年、イエスが預言した通り、ローマ人はエルサレムと神殿を破壊しました。約100万人のユダヤ人が殺され、ユダヤ民族はニ度目の追放の時代に入りました。それは約2000年にも及ぶものでした。2000年間、彼らは故郷から遠く離れ、分散されたのです。


ここで、この文脈において一つ明記したいことがあります。


教会は、イエスが十字架につけられ、復活された後のペンテコステ(七週祭、シャブオットとも呼ばれる)の日に樹立されました。当時、信者の大多数はユダヤ人でした。使徒行伝ニ章にそのことが記されています。使徒たちは皆ユダヤ人でした。ユダヤ人の使徒たちは、異邦人にも福音を伝えるために、大きな苦難を経験しました。そして、異邦人の信者のコミュニティが拡大するにつれ、ますます多くの異邦人が教会に加わるようになりました。


四世紀において、キリスト教がローマ帝国の国教とな​​った際、教会はユダヤ教との繋がりを絶っていきました。 二世紀後半にはすでに広まり始めていた置換神学は、キリスト教的世界観にしっかりと根付いてしまいました。この教えによれば、イスラエル民族はもはや神のご計画において特別な役割を担っていないのです。異邦人の教会がイスラエルにとって代わって、その使命を担うようになったため、イスラエルに与えられるはずだったすべての祝福は教会に移されたと説くのです。


もちろん、置換神学の根源は大体の場合、政治的、反ユダヤ主義的なものでした。しかし、多くの敬虔な信者たちも何世代にもわたってこの教えを信奉していました。イエスを信じるユダヤ人として、ユダヤ人を憎んでいない信仰を持つ人々がなぜこの神学を信じ続けることができたのかを理解しようと努めた結果、私は、一つの説明にたどり着きました。それを皆さんと共有したいと思います。


彼らは聖書を読み、イスラエルの民とイスラエルの地に焦点が当てられていることに気づいたことでしょう。しかし、当時の現実を見ると、イスラエルの地は荒廃し、見捨てられ、ユダヤ人たちは、国家を持たない小さな民族として世界中に散らばっていたのです。


こうした地上的な視点から聖書を解釈しようとすると、神が何らかの形でご計画を変更し、教会がイスラエルに取って代わったと結論づけるのが論理的に思えたのでしょう。これは、サラとアブラハムの物語を思い出させます。神は彼らに息子を授けると約束しましたが、サラは不妊でした。アブラハムとサラが年を重ねるにつれ、サラは自分が出産適齢期をはるかに過ぎていることに気づきます。彼女は自分の理解と論理に基づいて神の約束を解釈し、神を「助けよう」と決断したのです。


私たちは神に従い、神のご計画の一部となるよう召されていますが、神を「助けよう」とすべきではありません。そのような行為は決して良い結果にはつながらないのです。


そして19世紀に入ります。聖書の預言は再び成就し始めました。多くの困難にもかかわらず、ユダヤ人の民は徐々に故郷へと帰還していきました。同時に、聖書を真摯に読む多くのキリスト教徒は、イスラエルとの関係において聖書を新たな視点から見つめ始めました。それは、伝統的な解釈や偏った解釈といったレンズを通してではなく、聖書が本来の形で伝えられたように理解したいという真剣な願いからでした。


そして彼らは、現実の出来事が古代の聖書の預言と驚くほど一致する形で展開していることに気づき始めました。彼らは、現実の出来事が、数千年前に書かれたことと結びついていることを、目の当たりにしているのだと認識したのです。


多くの聖書教師が、イスラエルに対する神の約束と、その地で起こっている出来事に、より一層注目するようになりました。ちょうどその頃、ムーディー聖書学院が設立されました(1886年)。日本において、この分野に関心を寄せた先駆者の一人が、著名な伝道者であり霊的指導者であった中田重治でした。彼は聖書を真摯に研究し、ユダヤ民族とイスラエルに関する預言に深く関心を寄せました。


ムーディー聖書学院でも、ユダヤ人への宣教活動とイスラエル研究への関心が高まりつつありました。後に中田牧師は米国に留学し、この運動によって大きな影響を受けました。


神はイスラエルとの物語をまだ終えておらず、その約束は今もなお有効です。


聖書の預言はまさに成就し始めたばかりでした。イスラエル国家はまだ建国されていませんでしたが、彼らはすでに信仰のレンズを通して未来を見据えていました。私は彼らを真の信仰者と呼びたいと思います。


そして1948年5月14日、あらゆる困難を乗り越え、イスラエル国家は再建されたのです。


この出来事において、多くの聖書の預言が成就しました。ここではそのうちの二つだけを取り上げたいと思います。


「『わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない』とあなたの神、主は、仰せられる。」(アモス書 914-15 新改訳©2003)


「だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(イザヤ書 668 新改訳©2003)


今日でも、キリスト教の世界には多くの懐疑論者が存在します。そして、よく持ち上がる疑問の一つは、「もし現代のイスラエル国家が本当に聖書の預言の成就であるならば、なぜほとんどのイスラエル人はイエスを信じていないのか?」というものです。


それぞれの預言書を注意深く読むなら、聖書はイスラエルが不信仰のまま故郷に帰還すると教えていることが分かります。これはユダヤ人が神を全く信じていないという意味ではなく、国家としてまだイエスをメシアとして受け入れていないという意味です。ですから、これは聖書に見る預言にとって問題ではありません。むしろ、それこそまさに預言の成就なのです。


聖書は、神のご計画に明確な順序があることを示しています。まず、諸国からの集結、つまり最初の捕囚のようにバビロンからだけでなく、世界中に散らばっていた人々からの帰還が起こります。それから、次の段階、すなわち即座の霊的リバイバルではなく、訓練と準備の期間が訪れます。


エゼキエル書362426節で神が何と述べているかに注目してください。


わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、...あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。


順序は明確です。先ず集結、それから清め。先ず土地への帰還、それから霊的な刷新です。


まさに今日、私たちはこの状況を目の当たりにしています。イスラエルは故郷に戻りましたが、まだメシアへの国民的な回心を経験してはいません。同じパターンは、エゼキエル書37章の干からびた骨の幻にも見られます。


「わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、...イスラエルの地に連れて行く。...わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」エゼキエル書 371214


その過程は徐々に進んでいます。骨が組み合わさり、肉がつき、皮膚が覆います。しかし、まだ息吹は宿っていません。これは現代イスラエル国家の力強い姿です。土地は回復し、都市が建設され、かつて荒廃していた地に生命が戻ってきました。しかし、霊的な息吹はまだ宿っていないのです。それが神のご計画における次の段階になります。


新約聖書もこれを裏付けています。ローマ人への手紙1125-26節にはこうあります。


「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」


この状況は部分的で一時的なものです。因みに、イスラエル建国後、そして福音の全世界への広がりとともに、ますます多くのユダヤ人がイエスを信じるようになっていることも見て取れるのです。今日、ユダヤ人は過去2000年間で最も福音に心を開いていると言えると思います。


そしてゼカリヤ書1210節にはこうあります。


「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き...。」


―これは、個々のユダヤ人の個人的な悔い改めだけでなく、国家的な悔い改めの未来を明確に示しています。


ですから、今日ほとんどのイスラエル人がまだイエスを信じていないという事実は、預言と矛盾するものではなく、むしろその成就なのです。神は段階的に働かれます。まず民を故郷に連れ戻し、次に彼らを精錬し、準備させ、そして最後に彼らを国家的な信仰へと導かれるのです。帰還は既に始まっており、その過程は進行中であり、最終段階はまだこれからです。


もう一つ非常に重要な点として、聖書はイスラエルの故郷への帰還が段階的に起こることを明確に示しています。人間は、特に現代社会においては、何でもすぐに手に入れたいと願います。しかし聖書は、これは過程をとおるべきことであると明確に述べています。

エゼキエル書37章には、先ほど述べた、干からびた骨の谷の有名な幻が記されています。この預言を注意深く読むと、それは一瞬にして起こることではなく、段階を経て起こることが分かります。


まず骨が組み合わさり、次に腱が現れ、肉がつき、皮膚が生え、そしてようやく命の息吹が吹き込まれるのです。


そして、神はエゼキエル書3711節で明確にこう述べています。


「これらの骨はイスラエルの全家である。」


これは、イスラエル民族の復興を預言的に描写したものです。もちろん、私たちはこれを寓話的に解釈し、自分たちの生活や教会の生活に当てはめようとすることもできますが、本来の意味を見失ってはなりません。この預言はイスラエルの民に関するものなのです。


歴史がそれを裏付けています。ユダヤ人は、アリヤ(イスラエルへの帰還)の波を通して、段階的に故郷の地へと帰還してきました。19世紀後半から最初の帰還が始まり、1948年以降は、ヨーロッパ、アラブ諸国、そして後に旧ソ連諸国から大規模な移民の波が押し寄せました。そして今日でも、フランス、ウクライナ、その他多くの国々からユダヤ人が、歴史的な故郷へと帰還し続けています。


これは単一の出来事ではなく、一つのプロセスです。そして今日、私たちはその中間結果を目にしています。人々は帰還を続け、土地は再び活気を取り戻し、都市が建設され、生活が回復しました。かつて荒廃していた土地は、今や活気に満ちた繁栄する国へと生まれ変わりました。


しかし聖書は、命の息吹はまだそこにはないとも述べています。確かに、ますます多くのユダヤ人が信仰を持つようになっていますが、国家の完全な霊的回復はまだこれからです。これは神のご計画における次のステップです。聖書にあるように、神はこの民に御霊を吹き込まれるのです。そして、それは国家がメシアに立ち返る瞬間となり、その後、神は再臨されるのです。


「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」(マタイによる福音書 23章39節 新改訳聖書)


これは、ユダヤ人、特にエルサレムの住民がメシアの再臨を叫び求め、メシアを認める時、イエスは再臨されることを意味します。そこで問題となるのは、キリストの再臨はイスラエルがキリストに立ち返ることに依存しているのかということです。神は主権者であり、ユダヤ人を含め、誰にも依存しません。しかし同時に、聖書はイエスの再臨がユダヤ人の悔い改めと結びついていることを明確に示しています。


時代の明確な印の一つは、イスラエルの民が故郷の地に帰還することです。神のご計画における次のステップは、ゼカリヤ書 12:10-14 に記されているように、ユダヤ人の霊的な再生です。そして、ゼカリヤ書14章3-5節に記されているように、メシアは力と栄光を携えてオリーブ山に来臨し、地上に御自身の王国を樹立されるのです。


これはこのような重要な結論へと私たちを導きます。


イスラエルの民がイスラエルの地に帰還することは、単に段階的に起こるだけでなく、神のご計画における特定の時期に起こるのです。聖書は、イスラエルが主の日の前にその地に帰還し、終わりの日の出来事の舞台を整えることを示しています。例えば、終わりの日の出来事(しばしば大患難時代と関連付けられる)を描写するダニエル書9章27節には、非常に重要なことが示されています。この預言は、ユダヤ人が既にその地にいることを前提としています。言い換えれば、これらの終わりの出来事が起こる前に、イスラエルは既にその地に戻っていなければならないのです。これは、ユダヤ人のイスラエルの地への帰還は偶然ではなく、神の預言的な時間軸における特定の時期に起こり、これから起こる出来事の舞台を整えることを意味します。


そして、ユダヤ人とイスラエルに対する憎悪の高まりは、私にとって驚きではありません。それは、まさに、預言者ゼカリヤが終末の日に近づくにつれて起こる出来事の一部として描写していることだからです。


「見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。...地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。」(ゼカリヤ書 1223節 新改訳©2003)


創世記から黙示録まで聖書全体を読み通す中、不信仰である中での帰還、段階的な回復、そして終末の出来事の前に立ち返るという流れを総合的に考えると、私たちが聖書の預言の成就の時代に生きていること、また現代のイスラエル国家が古代の預言の成就であること、そして私たちが終末の時へと近づいていることが明らかになります。


結論:神は御言葉に忠実でおられます。


私たちの時代において、神はイスラエルの民を諸国から集め、約束どおりまた文字通り、彼らの土地へと連れ戻しておられます。過去100年以上にわたって起こってきたことは、歴史上の偶然起きたことではありません。それは聖書の成就なのです。


このプロセスは今もなお進行中です。

そして最も重要な展開はこれからです。

 
 
 

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